紀元前一世紀 |
武蔵国名の由来乃春日宮創建 (東京大学教授 亀井貫一郎先生講義著書より)
神武天皇海の彼方より、中臣氏の祖雨種子命、大伴氏の祖道臣命等を従へ、常陸国鹿島に上陸、附近の蝦夷を平定、出雲国に向ふ途中、5里毎の主要地点に、春日社(祭神はタケミカズチ命、斉王命、天兒屋根命、比売神)を建立す、御尊体は赤童子也。橘樹に置ける此の宮は、現宮内の春日神社是也。
神武天皇即位二年に、此の地を胸刺改め武蔵と称し、国造(中臣氏祖)縣主(大伴氏祖)を置く。 |
崇神天皇七年 |
崇神天皇武蔵国に天社(春日宮)・神戸の制を定む
(亀井貫一郎先生の講演・東京大学史料編纂所の資料による)
此所武蔵国春日宮を天社と定め、又此所を神地と定む、各所に神戸(かんべ)を置く。
大戸、坂戸、登戸など今に地名に残る。神名地は上小田中に伝ふ。 |
垂仁天皇末期 |
田道間守、勅を奉じ常世の国に非時香菓を求め武蔵国立花(橘)の地に来る。
(記紀・国史年表古代地図物産・東京大学史料編纂所資料・和名類聚抄・常陸国風土紀などからの考察)
天皇の神仙思想によって命を受けた多遅摩毛理(田道間守「日本書紀」)が、常世の国(東海の果ての日出ずる国)当時は最温暖期以降の微高性地帯であった旧胸刺(武蔵)の陸に実りし非時香菓(みかん)を献上された。橘の地名の由来については諸説があるようだが、是により非時香菓は橘(たちばな)と呼ばれるようになったといわれる。是即ち橘 地名 及び 橘姓の始めである。
後の10世紀頃まで、武蔵国・相模国の古代産業として、橘があった事が各資料よりわかっています。また、天平13年に創建されたといわれる武蔵国分寺(国指定史跡)からは、「橘」と陰刻印などの入った瓦が多数出土しています。その他にも、万葉集では浦島太郎が行った竜宮城は常世と記されていて、神奈川区には今も浦島寺があり、浦島太郎のゆかりの品々や伝説等が残されております。 |
景行天皇三十年 |
川崎市高津区子母口の立花神社(現橘樹神社)は弟橘媛・倭建命(日本武尊)の二神が祀られており、富士見台古墳が出来たとの説がある景行天皇三十年の後に拝殿として作られたといわれている。 |
534年
安閑天皇元年
閏12月 |
日本書紀に国造の地位争いで武蔵国橘花が登場する。(日本書紀巻十八)
日本書紀内・安閑天皇元年に武蔵国橘花が国造の地位をめぐる争いで登場する。
この記述より文献上において武蔵国橘花の名は、実に1500年にも及ぶ長い間使われてきた事が分かる。 |
538年
(安閑天皇十年) |
現影向寺域に御堂の建立、仏像が安置される。 (武蔵国橘樹郡史正傅影向寺縁起)
梁の人持参せる仏像を、橘氏を以って武蔵国橘花橘陵に御堂を建立安置せしむ。 |
647年十二月
(大化3年) |
役小角が霊泉源を発見 (武州有馬不動尊霊験記)
役小角が仏教弘道の目的で武蔵国と相模国に訪れる。橘花の地にも現れ、玉川の川原丘陵に薬師堂を建立、野川・在馬龍宿山・轟(現 等々力)に不動尊安置、在馬(有馬)龍宿山に霊泉(誠の水)の滝口を見つけ、お堂を建立し不動明王を安置する。是が後の有馬西明寺となる。
※日本地名研究所の資料などによると、現在の有馬は過去に在馬・有間・在間・有間村などと記載され時代によりその名を変えていったたようである。現在もなお、東有馬の地に浄土真宗東本願寺派 有間山 長善寺(1591年創建)があり、有間山の山号碑文が刻まれている。(参照 新編武蔵風土起稿巻・川崎地名辞典) |
738年
(天平10年) |
安部内親王(豌豆瘡)霊泉にて全快する。 (春日山常楽寺略縁起)
安部内親王(聖武天皇の娘)は豌豆瘡(天然痘)にかかるが天社春日明神への祈祷と有馬不動霊泉沐浴、服用の効験があらかたで全快する。
霊泉は汲み置いて一定の時間を経ると、表面に黄金色の膜を張る状態になるところから「黄金の水」とも呼ばれて、霊水のまかれた場所は金色に輝いて見えたとの記載がある。この記録より当時から霊光泉は黄金の膜を張る霊泉であったと思われる。 |
740年
(天平12年) |
安部内親王の病気平癒の報謝により、有馬竜宿山に西明寺を建立。
(宮内常楽寺略縁起・胎内銘文・町誌・宮内庁書陵部蔵九絛家文書)
橘宮(現影向寺)に春日宮建造物の移転、大和春日宮より御神体を分祀勧請し春日新宮と命名し玉川より玉の霊石、有馬西明寺より不動の霊泉を帝に捧げられた。また春日新宮の奥の院に薬師寺を建立し施薬院で不動の霊泉を常備し人民の救済を行う。また、先にみた役行者の祖小角の発願によって有馬龍宿山に安置された不動堂の御堂は、有馬西明寺と命名されたようである。
(現在の有馬不動堂付近の略図・旧有馬西明寺跡↑) |
858年
(天安2年) |
影向寺に慈覚大師が薬師如来像(現在 国指定重要文化財)を造立 |
947年
(天暦元年) |
村上天皇罹病(疱瘡)霊泉にて全快する。 (国史年表・武州有馬不動尊霊験記)
村上天皇は侍臣の一人から有馬不動の霊泉にて阿部内親王の病気が治癒した故事を聞き奉幤使を遣わせ春日新宮に参拝、霊石を祈禱し、当時天下に轟く名声をもって聞こえた有馬西明寺の不動の霊泉(誠の泉)を汲み上げ、朱雀上皇並びに村上天皇に献上した。上皇並びに帝はこれを服用したところ、たちまち病が平癒した。 |
1063年 |
源家により八幡宮建立。
源頼義により鎌倉由比郷へ石清水八幡宮(現在の鶴岡八幡宮)が建立され、
後の1087年頃から源義家により、現川崎市内の各地に八幡宮が建立される。 |
1256年 |
北条時頼(赤班瘡)霊泉にて全快する。 (霊験記・新編武蔵風土記・寺院伝説)
鎌倉幕府の五代目執権時頼は、赤班瘡(麻疹の一種)に罹ったが有馬西明寺の霊泉に浴し専ら治療に専念し、霊泉のお陰で病は驚くほど順調に回復、その効能の聞きしに勝る効き目に驚嘆した。 |
1257年
(正嘉元年) |
八月二三日、関東に大地震が発生する。(国史記録・霊験記・風土記・伝説)
この地震により有馬西明寺の堂宇も殆どが倒壊し、霊泉も振動によって激しく揺さぶられ湧泉が止まってしまう。後の修理により湧水を取り戻したが、もはや普通の水しか出なかった。この霊泉の跡地には現在も安永年間作の不動明王像等が置かれ村人や近所の人たちの祈祷の水垢離場として今に残っています。 |
1258年 |
入道時頼が発願主、大檀越となり有馬西明寺を再建する。 |
1433年
(永享5年)9月 |
相模国を中心とした大地震が起こり1258年に再建した有馬西明寺は再び倒壊してしまう。 |
1444~
1449年
(文安年間) |
有馬西明寺、不動尊・お堂を有馬へ残して小杉に移る。
この時期は室町幕府の施策に対して各地で土一揆が続発し統制も乱れていた事から倒壊した有馬西明寺を再建しようと考える豪族は地元から現れなかったが、放置されている状態を見かねた元有馬から小杉に移住していた豪族達によりこれを小杉へ移築・再建した。これにより有馬西明寺は小杉西明寺と呼ばれるようになった。 |
1963年
(昭和38年)
6月21日 |
創業者安岡孝が八幡大神のお告げを受ける。 安岡孝・当時の日記・記憶より
東京都港区にて工場を営んでいた安岡孝は、夢中にて遥か東方から鳥帽子を冠った白衣の翁が現れ、やがて白い美しい光の玉となって西方に向かうと思うと、スーッと胸の中に入るようにして消えるのを覚え目が覚めた。これは何かの霊感だと思い、予てから工場移転の適地を探し易者に相談していたのでこの事を話すと、『八幡大神のお告げであろうから、西の方角において良い土地が発見されるだろう』と判断された。八幡大神は孝の両親が深く信仰していた神で、父晴男が存命中の九州博多に居住していた頃、菅崎八幡宮に母に連れられてよく参拝したことがあり、これこそ何かの因縁であろうと熟考の末、西の方を目指して適地の探索を始めた。
凡そ半年後に導かれるようにしてこの有馬の地にて八幡大神の御姿絵を拝し、これぞ御神示による土地と確信し、此処に移転を決意したのである。 |
昭和40年
7月27日 |
八幡の神告により安岡孝氏が霊泉源を発見する。
当時、有馬の地はまだ上水道が整備されていなかったので、水を得るために井戸を掘ったところ、待望の水が湧き出たのである。始めは青く濁った水が湧き出して臭いが酷く飲用には適さなかった。(是が後の泉源となる。) |
昭和41年 |
有馬療養温泉の設立
青く濁っていた水は半年ほど汲み出しを行うと稍く澄んで来たので、これで風呂をわかすとたちまち赤黒い色になった。気持ちが悪かったが是に入浴すると、疲れが消えたように感じられ、浴後は爽快を覚えたのである。その上、持病のリューマチで苦しんでいた妻のヤエ子が何度か入浴するうちに体の痛みが次第に消えていった。不思議に思った安岡孝はその後、保健所・神奈川温泉地学研究所・財団法人中央温泉研究所に詳細な水質検査を依頼し良質な鉱泉であると判明する。
安岡孝氏は、病に苦しんでいる方が一人でも少なくなるように、少しでも良くなってくれるように、との思いから希望者に有馬療養温泉と命名し、温泉風呂の無料開放を開始する。また、同年10月21日(毎日新聞)、22日(サンケイ新聞)両紙に温泉無料開放の記事が掲載され、連日大勢の方達が訪れるようになる。 |
昭和43年
2月9日 |
温泉敷地内に八幡宮の建立
由縁のある鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の御霊の御分譲を受け、毎年9月9日を祭日として神殿を新築奉祀し御神徳を拝謝する。(後の昭和55年以降の影向寺歴史調査により、この土地はかつて有馬西明寺が建立されていた場所であり、戌の神や八幡大神も祭祀されていた事がわかり因縁を深く感じる事となる。) |
昭和43年
4月 |
有馬療養温泉旅館の設立
2年以上にわたり温泉を無料開放してきたが、その効能豊かな温泉により毎日入りきれないほどの人が殺到するようになり、温泉に入りきれない方達まで出て来てしまった。このままではと思い設備を整えて宿泊も出来るようにし『ここは病気に苦しむ人たちに与えられた場所』との信念を元に温泉療養施設としての営業を開始する。 |
昭和43年
9月9日 |
誠の泉 有馬西明寺不動の霊泉は『霊光泉』と命名される。
当時の厚生大臣・園田直氏がたびたび御来浴されて、この万病に効く霊泉をとてもお気に召され『霊光泉』(りょうこうせん)と命名、皇后陛下に献上され記念碑が敷地内に石碑として祭られる。 |
昭和63年 |
武蔵の極み 影向寺史の発刊
影向寺史の発刊にあたり資料収集の為、著者が有馬療養温泉を訪れ『温泉で金にまつわる様な物や話は御座いますか?』と質問を受けた。当時から鉱泉井戸の表面に虹色の膜が張っており輝いて見えていた為、亀ヶ谷さんに鉱泉を見ていただくと大変驚かれた様子であった。この地の歴史の中に西明寺の霊泉として、世の人を救った霊泉があったと古文書等に記されており、その霊泉は『撒かれた場所が光り輝いて見えた』事、汲み置いて一定時間がたつと、表面に金色の膜が張り『黄金の水』と呼ばれていた。この地には以前有馬西明寺があり、旅館の敷地は当時西明寺の境内であった等の事であった。この事から当時の霊泉と現在の鉱泉脈が同じであろうと伝えられ、霊光泉の1300年以上にわたる歴史を知ることになった。 |